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最高裁判所第一小法廷 平成3年(行ツ)40号 判決

大阪府泉佐野市大西一丁目九番二〇号

上告人

馬場谷幹次

大阪府泉佐野市下瓦屋三丁目一番一九号

被上告人

泉佐野税務署長 末原慶清

右当事者間の大阪高等裁判所平成二年(行コ)第四五号所得税更正処分等取消請求事件について、同裁判所が平成二年一一月二九日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄する旨の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告人の上告理由について

本件訴えを不適法として却下すべきものとした原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は、本件訴えが適法であることを前提として、原審が本案についての上告人の主張を採用しないことの不当をいうものであって、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大内恒夫 裁判官 四ツ谷巌 裁判官 大堀誠一 裁判官 橋元四郎平 裁判官 味村治)

(平成三年(行ツ)第四〇号 上告人 馬場谷幹次)

上告人の上告理由

はじめに!!

上告人=馬場谷幹次(72歳)(以下「私」・「吾」・又は稀に自称「幹愛」<マサヨシ>ともいう。)=は、昭和21年3月、台湾(台南市)から親子3人(幹次・妻(嘉美子)・長男「肇」(3才)(湾生<ワンセイ>という。)で、基隆港から大竹港(広島。)に上陸、佐野大西町の自家〔昭和16年3月13日。入夫婚姻〕へ引揚げ帰還した「引揚者」であります。(日僑扱い。)

引揚げた当初は、養父・母倶に健在であり、農家(市街化地域百姓。)です。私も29才から不馴れの百姓仕事は苦労の連続でした。(旧飛行場跡地の手作業開墾等。)就中<ナカンヅク>、カラスキ(牛で耕起作業。)使いは筆舌につくし難しでした。

養父(千太郎)は、泉佐野市西農業協同組合(現在は「泉佐野市農協西支所」という。)の監事、稲倉池土地改良区(西改良区という。)の理事・監事、水利担当理事(「水利」という。)水利会計、大西町総代(大西町会長の前身。)等数多く役職の経験済みですが、それにひきかえ後継決定の吾は、引揚げ以来平成二年(現在。)まで四〇有余年を経過していますが、泉佐野市農協の理事・監事、西改良区の理事・監事、水利・水利会計、西支所出荷組合委員長、農業委員等には、「一度の経験もナシ」です。(一期=2~3年。)「環境に順応不能の『吾が身の不徳』のいたすところ。」とは申せ遺憾の極みと申すべきでせう。ただ、過去を回顧して特筆すれば、

○ 昭和24年2月(引揚げ3年後。)水利主催の農家工事(カタホリ)に於て、突発事故「土中に埋没」するも、多大の慈悲(工事従事者。)のおかげで、戸板で搬送、九死に一生を得て「蘇生」<ソセイ>する。(詳細=略。)

○ 昭和35年頃(昭和20年=中華民国35年。)台南市宝國民学校(2号表)勤務時の教え児(林請讃=東大工学部在籍の留日学生。)が、卒業アルバム(昭和18年3月、初等科修業。)等をたよりに、台南の珍味を携えて、吾が家(大西町の拙宅。)をたずねてくれた。(面談時間少し。)一週間後の手紙には、「きびしい、厳格な先生」、(あの手に用心。)といふ以外はなんの印象もなかった先生が、今度の再会(20年後。)では、「好々爺」(ハオハオヤホ)と。(詳細=略。)

○ 長男「肇」が、佐野工業機械科二年在学当時、父(千太郎)のすゝめで、タオル工場に転向。吾は親の責任上、乳牛(2頭)・和牛を賣り、実家からの融資で厩舎(ウマヤ)の改築及び織納屋一棟(25坪)を建て、織機3台、附属一式・糸を巻きつけて以後は「肇」に「一任」する。母(トメ)・妻(嘉美子)も織工(オリコ)として加勢。

千太郎は老人・病身故会計監督。

吾は「専農」ながら、チキリ担ぎ、雨天時のミシンかけ等援護につとめる。(以下中略。)

○ 昭和40年4月21日、千太郎は、貝塚の千石荘病院で永眠する。

誠情院釋暁光=馬場谷家の「院号」のはじめ。

40・4・21相続開始にかかる相続税について「問題」(異議)を提起する。(後記・参照。)

○ 昭和43年4月―同46年8月、大西町総代(大西町会長の前身)に推選される。(昭和41年副となり2年後昇格の条件付。)

署、担当( )の強引な誘導に不本意ながら、大西町納税貯蓄組合(地域性。)を創設する。すなわち、大西町区域内の「西農協」に事務所をたのむ。地域性納貯組合では、当初市場町と大西町だけと記憶する。期間中では年二回の集会「皆出席」であり、昭和44年度の表彰式典の写真にも参列。(提出資料参照。)

昭和45~46年頃、相続税問題について、市、税務(花篤課長。)と同道、署を訪れ、市税務課発行(固定資産評価表。)による吾が期限後申告書(納税額〇円。)は地番に於て、1714→4714を確認する。すなわち、1714→4714と書きかえられている。よって、花篤課長の「経緯書」(証明書。)を大阪国税不服審判所(協議団は発展解消。)に審査請求書を提出するも、結果として「敗<マ>け」である。(但し、証拠資料等は原本提出済につき、物的証明不可能に近しと雖も、当事者本人(馬場谷幹次)は現在生存中である。

○ 昭和50年1月 同 51〃12〃二年間、西実行組合(「西実行」という。)組合長に推される。

(任意団体・幹部=組合長・他9人。副・会計・書記は班長を兼務。組合員(100人。)

旧園藝実行・旧第一実行・旧西実行の3実行が、昭和47年対等合併で「西実行」と創生する。

昭和50年早々、旧飛行場跡地(自作農創設特別措置法による農地払下げ。)の境界確認問題について、「西実行団体交渉」の示威行動(西実行組合長が「代表」として交渉に当る。当日、組合員各自は、鎌・鍬・オコ(テンピン棒。)等を持参して、各自の位置で待機。出刃(でば)や大工の「ノミ」は禁止する。但し万一の場合を配慮して鎌は研(ト)ぎすまして持参のこと。)により、西支所内に「備蓄のコンクリ柱多数」がいつの間にか「散逸」して「境界問題は『中断』となる。」(以下「略」す。)

○ 昭和54年11月7日、6580番地付近で「府(ヒロザネ)主幹・市、担当( )。」と境界確認問題について「対談交渉。」するも、「不首尾。」に終る。

私物録音(〈1〉A約20分。現地対談交渉の内容は収録のとおり。)

○ 昭和54年11月22日 於・市福祉センター 9.30~11.30

改良区主催 ヒロザネ主幹市担当 説明会。(吾が質疑に応答ナシ。)

私物録音(〈1〉B〈2〉A・B 約2時間。内容は収録のとおり。)

○ 昭和55年4月1日「市長と語る90分」に参加。 於・市長室。

市当局で、全行程を収録。後日、私も「複収録して所有する。」

内容は・旧飛行場跡の境界問題・相続税問題が主体。(〈5〉BA 約一時間。)

○ 昭和58年3月11日 57年分の確定申告書(自筆)を提出。

(泉佐野税務署総務課受付 58・3・11控)以下中略。)

○ 昭和60年1月〃 61年12月二年間、西実行副組長。組合長=新家谷 修

昭和60年3月2日(土) 西実行の確定申告日。(59年分。)於・西支所2階。

西実行幹部一同(組合長他9人。)は、早々に会場(西支所2階。)に出張して、順次入場の西実行組合員にあらかじめ用意の「西支所提供の『資料』を本人に手渡し」して、順番に〈1〉顧問税理士(木原先生・他)〈2〉西支所職員(数名。)等により、確定申告済み次第自由に退場する。組合員本人に配布の「資料」について、「私ただ一人『異議』アリ。」すなわち資料には、キャベツに於て、昭和58年11月→同、59年10月間の「所得計算」であり、私分は「抹消のまま」。早速家に戻り自己計算書(昭和59年1月→同、59年12月。)に基づいて「記載」して会場へ。(その間15分。)農協職員により「確定申告完了」。納税額=〇円。

しかしながら、これが「キャベツの当該年分の資料(西支所提供。)に対する『見解の相違』の発端」である。吾惟<オモ>ふに、支持者のない「孤独の弱体」では、発言に効少しと雖も、「事実は絶体にして何人と雖もこれを否定する能<アタ>わず」の気概で対処するほかなしである。

その後も、「正解」(合意)を求めて、署、担当(和田統官)と「面談交渉」すること枚挙にいとまなし。(詳細=略。)

○ 又、一方土地問題について、〈1〉農地と宅地 〈2〉農地の(土地謄本)と現状(慣行)の相異等についても、納得不能、「不服である。」

例=旧飛行場跡地6580~1番地(農地約1反歩。)を昭和57年8月13日、訴外平野金属K・Kに登記面どおりで譲渡、所有権移転登記をする。(長男「肇」が吾が代行。)平成2年12月現在、ユウレイ地(所属不明)約4坪かある。

以下、上告の理由を陳述する。

一(一) 前略

(二) 昭和60年6月23日受け取った。

60・6・21付 所366号 泉佐野税務署長 黒川昌平

昭和57年分所得税の更正加算税の賦課決定 通知書

本税の額 一七、七四四、〇〇〇円

過少申告加算税額 八八七、〇〇〇円

納期限 昭和60年7月22日

(別紙目録 (六) 右通知書コピーのとおり。)

は、「欠陥文書」(瑕疵(落ち度)ある意思表示)である。

よって、民法第一一九条(無効行為の追認)

無効ノ行為ハ追認ニ因リテ其効力ヲ生セス但当事者カ其無効ナルコトヲ知リテ追認ヲ為シタルトキハ新ナル行為ヲ為シタルモノト看做ス

民法第一二〇条(法律行為の取消権者)

取消シ得ヘキ行為ハ無能力者若クハ瑕疵アル意思表示ヲ為シタル者、其代理人又ハ承継人ニ限リ之ヲ取消スコトヲ得

等民法を適用して、すみやかに「取消し」を求める。

併せて泉佐野税務署長(末原慶清。)の「遺憾の意思表明」を求める。

二 2・6・21付答弁書(乙第1号証ないし乙第5号証を含む。)

(大阪地方裁判所第7民事部2・6・8)

のうち、原本に「まちがい」(不実記載。)がある。

即ち、右原本により正写しました

平成2年5月25日

被告指定代理人 濱田猛司〈印〉によれば、

(一) 乙第1号証 P3上段 納付すべき税額 一七、八四四、〇〇〇円

は「まちがい」で、正解は一七、七四四、〇〇〇円である。(別紙目録(六)右通知書コピーのとおり。)

(二) 乙第3号証 P14別表 算出税額 一七、八四四、〇〇〇円・納付税額 一七、八四四、〇〇〇円

も亦「まちがい。」で、正解は、一七、七四四、〇〇〇円である。(別紙目録(六)右通知書コピーのとおり。)

(三) 乙第4号証 (昭和六二年(行コ)第四六号事件 判決。)

欠陥文書(瑕疵)についての判断には全然記載がない。

よって、2・12・6付 上告状

(大阪高等裁判所受付2・12・6控)2(行サ)第35号

上告の趣旨=原判決を破棄、さらに相当の裁判を求めます=のとおり、60・6・21付昭和57年分所得税の更正加算税の賦課決定通知書の「取消し「(判決。)を求めます。

三(一) 乙第3号証は、昭和六一年(行ウ)第九二号所得税更正処分等取消請求事件の「判決」であって、平成二年(行ウ)第三〇号所得税更正処分等取消請求事件でない。よって

(二) 2・12・6付 上告状

(大阪高等裁判所受付2・12・6控) 2(行サ)第35号

に添付した

平成二年(行ウ)第三〇号 所得税更正処分等取消請求事件「判決コピー」、平成二年(行コ)第四五号所得税更正処分等取消請求控訴事件(原審・大阪地方裁判所平成二年(行ウ)第三〇号「判決」コピー、平成二年行(行コ)第四五号 催告書コピー。(大阪高等裁判所第12民事部。裁判所書記官新出千秋)

等により、上告の趣旨のとおりの「判決」を求める。

四 関連派生の2件について

A 60・7・17付「国税資料により変更します。」に基づいた地方税(市・府民税)。

60・8・1付 泉佐野市長 向江昇

昭和60年度(過年度58年度分)市民税・府民税変更(決定)通知書

昭和60年度市民税・府民税納税通知書 過年度(58年)課税分

税額 五、二八三、三〇〇円

納期限 昭和60年8月31日

(別紙目録 (一二) 右通知書コピーのとおり。)

上告人は、昭和60年8月5日(水門当番で繁忙時期。)市役所を訪れ、課税課(福重課長。)保管の「国税資料」を見て、吃驚仰天。(ピックリギョウテン。)

即ち、昭和57年分所得税の更正・加算税の賦課決定通知書

(上告人の所持する分、即ち別紙目録(六)右通知書コピー。)

と、昭和57年分所得税の更正・加算税の賦課決定決議書(決裁・課税台帳用)

(課税課の保管する分、即ち別紙目録(一五)右決議書コピー。)

とでは、明らかに「相違がある」。即ち上告人の異議申立書記載を参考に、「ひそかに正当化」した文面と推察する。

尚、60・7・17付「国税資料により変更します」時点では、署長黒川は「不在」であり、当該決算書は「無効書面」と見るのが相当である。又担当前馬については「異動以前」に「不在」である。正当化策として起案60・5・13も亦、「心憎い。」昭和58年9月27日提出、昭和57年分所得税の更正の請求書は、担当(前馬)の所管事務である。(別紙目録(二四)更正の請求書控参照。)

又、一方市納税課は、「徴収」の任である。よって、課税課長(福重)と納税課長(杉岡)が一緒に「双方文面」を持って「市長に進言」するよう、強く要請したが、結果は「ニギリツブシ」に終る。(自称税務行革推進遊説隊同行二人。)

(中略)

平成1・12・14付 催告状兼領収証書 大阪府泉佐野市長印

昭和60年度市民税府民税 合計 八、五五九、八二〇円

本状使用期限 平成元年12月28日

については、市納税課を訪れ、納税課長(水脇)と面談

平成元年(行ナ)第三六号事件 最高裁第三小法廷

「判決正本」が「未着」である。それまで待ってほしいとお願いする。

長男「肇」の「独断専行」について

平成2年1月19日市役所を訪れ、未納税額明細書を求めたところ、60年度市・府民税合計六、九四一、一二〇円である。

早速家に帰り、長男の妻に見せたところ、既に「納付済」との由。後日、市役所で「納税証明書」(三〇〇円。)を求めたところ、昭和60年度市・府民税五、二八三、三〇〇円である。されば、納付済額との差額一、六五七、八二〇円の「行方不明」を疑ふ。

尚、「国税資料により変更します。」の大義名分がある上は、国税に「変更」があれば、市・府民税の変更も亦「当然」である。

B.60・7・25付 大阪国税局長大蔵事務次官 新藤恒男

徴収の引受通知書

(別紙目録(一三) 右通知書コピーのとおり。)

私は、昭和60年8月6日午前9時ごろ、電話連絡(約18分。)の後、上阪、大阪合同庁舎第3号館の徴収部特別整理総括課(5部門)をたずね、倉元功先生の前で、玩具(ルービックキューブ)の実演。(12手目で成功。)

即ち、中枢部(署長・市長・局長等。)を180度返還して「正位」となす。

又、行政不服審査法一条(この法律の趣旨)

〈1〉この法律は、行政庁の違法又は不当な処分その他公権力の行使に当たる行為に関し、国民に対して広く行政庁に対する不服申立てのみちを開くことによって、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図るとともに、行政の適正な運営を確保することを目的とする。

同法四七条(決定)

〈4〉事実行為についての異議申立てが理由があるときは、処分庁は、当該事実行為の全部若しくは一部を撤廃し、又はこれを変更するとともに、決定で、その旨を宣言する。ただし、異議申立人の不利益に事実行為を変更することができない。

等徴収の引受通知書についての矛盾点を陳情する。その後=略。

(中略)

平成2年7月11日、局、徴収部第3部門植松先生に電するも、代人(ソノベ)いはく、「植松数宏は『転勤』との由。」

(152A・約4分。内容は収録のとおり。)

よって、私は「無視」又は「除外視」した「既成事実」(正当化策。)を改め、上告の趣旨どほりの「判決」を求めます。

以上

(添付書類省略)

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